建前は最強の暗殺者になりたい、という夢を見るにもほどがある理由でアサシンになった。
実際は、アサシンの能力を駆使し、一般的に正義と呼ばれていることを成し遂げたいからアサシンに
なったのだが、それを言ってしまうことは騎士団になりたい理由、金儲けのため、と書くのと
同じである。門前払い間違い無しだ。正直、正義を守る騎士になれるほどの気高い心はあったとは
思えなかったし、魔法も他人にとっては現実で、自分にとっては非現実的なこと、と開き直ってしまえる
ぐらいに、そちらの才も無かった。
孤独だった。アサシンになるには盗賊から、自分は盗賊らしいことをしたことはない、する気も起きない。時たま
盗賊の中にも義賊という他人奉仕に生きる者が存在するが、あれらは結局悪いことだ。賛同する気には正直なれない。
何故こんな人間なのかと問い詰めてもしょうがない。理性は、自分の都合の良いことしか答えてくれない。自分を
不利にする解答は、僅かながら死に至る可能性も秘めている。理性は宿主無しでは存在しえない、曖昧なものだ。
故に、死なれては困る。だから、自問自答をしようが、自分にとって、まったくもってそのとおり、な解答しか返ってくることはない。
人間はこうして生きてきたのだろう。こういった人間の性に文句をつけてもしょうがない、自分と同じような考えを持った人間が
たまたま周囲にいないだけかもしれない。正義のアサシンは、異質であり、それゆえに格好良いと酔いしれることが出来る
ものの、人間関係は保たれたものではない。簡単に言えば、孤独である。それもそうか、と割り切れたらどれほど
楽なことか。悪いことをするにしろ、良いことをするにしろ、他人がいなければ人間は存在する意味が無い、価値も無い。
正義の為に生きている本能の塊になれたらどれほど楽になれたことか、と何度も思ったが、それを超えたものが狂人なのだ、と
思い続けている。
何千年も滅んだという陳腐な建前とともに、外見は静けさを保っている城。だが、外の静けさとはうってかわって中身は
悪意がこれでもかというぐらい漂っている。好奇心でグラストヘイムと呼ばれた城の中に進入し、帰ってこなかったか
遺体で発見された、という報告は耳にたこが出来るぐらい聞いた。だが、鍛錬を行なうには意味も無く血に飢えた怪物が
潜むこの城が一番なのだという。足が震えている、本格的なアサシンも、この城に侵入する際には過剰な準備を行なってから
黒く生々しい煙が渦巻くこの城の中に突っ込んでいくのだという。グラストヘイムがこうして存在していても、現実は今もなお
平和を保っている。たった一箇所に、濃い悪意があっても、世界という広いフラスコの中にとっては何ら関係は無いのだろう。
底に、黒い粉が染み付いているだけだ、だが、確実に人を殺す毒の成分が混ざっている。自分は舌を鍛えるために
その粉を嘗め回そうとする頭のおかしい男である。少しだけ笑いがこみあげてきた。自分はもう狂人なのではないか、この城に
足を踏み入れること自体が狂人の証なのではないのか。
「行くぜ」
両手に斧を持ち、死人と悪意と怪物しか存在しない希望の無い城にへと入っていく。協力し合って探索するというのが、この城に
入る掟のようなものらしいが、あいにくと、自分にはそんな余裕は無かった。
入って数分して適当に歩いてみたら迷った。金をいくら払おうが、規模が大きすぎて最低でも十数年かかるような、悪意に
感化されたような構造をしているとは思わなかった。もっと情報を収集しておけば良かった、と思っても遅い。情報という
痛み止めを飲もうが、この暗さ、広さに目を奪われ、薬の効果など消してしまうに違いない。
だが、盛況だった。化け物を目にはしたが、その大半は集団で行動している者が次々と消し飛ばしている。今日は手馴れが多いらしい。
外の冷たさと同じく、城の中も寒く、そして暗かった。時にはつまづいてしまうこともあったが、何とか体勢を整えている。
早く、人の為に何かをしてあげたい。それだけが、迷路にも近い現実に関与することは一切無いこの城を歩ませる要素にへと
成り果てている。信念だけは抱いていようが、その信念を吐き出さなければどうしようもない。男は、黙っていられる生き物では
ないのだ。だから、前とも後ろとも知れない道を進んでいく、暗くて地下にいるのか上にいるのかすらも理解できない。流石に
慣れてきたが、黒いもやが眼球に染み付いているのか、外の世界のように、遠くまで澄んで見えることは無い。
まるで自分の心みたいだ、と思う。正義のアサシンなど、未来すらあるのか分からないその願いは、叶うことは無いほうが
当たり前なのだろう。ましてや、そこまで考えが行き着くことはないのだろう。そして、他の真っ当なアサシンを馬鹿にすることなど
出来るはずもない考えなのだろう。馬鹿にされるのは自分でしかるべきなのである。おかしいのは全て自分なのだ、それでも
諦めることは出来なかった。正義を信じている人間とはそういうものなのかもしれない。
やがて、黒ばんだ闇の向こうに、何かを見つけた。横向きに倒れている女。
「おおっ」
狭いところにいたのだろう、自分の呻きはところどころに跳ね返り、情け無い声を幾度となく反射した。誰も聞いてはいないらしい。
だが、こうなっても仕方が無かった、自分は男だ、誇りと信念と、女を抱きたいという夢を持った真っ当な一男子である。
言い訳だった。派手な格好をした女が倒れている、挑発的で、露出的な衣装が目立つ、これだけで城の無機質さに
とらわれ、停滞していた脳みそは機嫌よくぐるぐると回る。正義を名乗っても、男なんだからしょうがないと近づいた時、すぐに
興ざめた。あちこちから血を流している。まずい、何とかしなければ、となけなしの資金で手に入れた白いポーションを袋から取り出し
屈み、そして飲ませる。水色に近い青く長い髪に赤みがかかった目。見たことの無い衣装だったから、異国の者なのだろうか。
体も大きい。自分の身長は百七十五あたり、ざっと見る限りでは女はただの男に威圧感を与えてもおかしくないほどの背の高さ
だと思う。
「うくっ」
細めていた目が、少しずつ見開いていく。よく見れば、耳が長い。流行りだしたとされる、長いつけ耳なのだろうか。
「う、あ、あ?」
不意をつかれたような、気の抜けた声。それを聞いて、普通の人だと安心出来る根拠にしがみつく。
「あ、あたし、は?」
「はい?」
台詞の繋がりからして、本を読んでいるとよくある、記憶喪失になった女、または男である可能性が濃くなってくる。
少しだけ不安になっているのにも気づこうともせず、女は、
「あ、ああ、そう。グラスト、ヘイムね、ここは」
「えっと、そう」
うなずき、
「あたしは、そう。確かここで倒れていて」
「うん、そう」
二回続けてうなずき、
「ああ、そっか」
尻をついたまま、寝起きのように、窮屈そうに体を起き上がらせ、生まれたばかりだから自然とこうする、という具合に女の子座りになる。
「あなたに助けられたのね」
「ま、まあそうなる?」
座っていても、身長が大きいのか、存在感はある。それでいても、先ほど感じられた威圧感は微塵とも感じられなかったが。
「ありがとう」
にこりと笑った。それと同時に氷解する疑心暗鬼と、身長が高いからといってけして威圧的ではない、という偏見。
一体何がどうなって、自分は女の子、というよりも姉御と呼ぶに相応しい人物と遭遇したのか。これが運なのか。
「い、いやぁ〜、俺様は正義を守るアサシン様だからな!」
口で言えばもっともらしく聞こえるが、蓋を開けて現実を見れば、ただの少数的な賛同されない考え方でしかない。
だが、現実など知ったことではなさそうな女はそれを聞き、ほほえんでいる。
「格好良いのね。あたしはジルタス、そして、この巨人族が支配していた城の拷問係」
「えっと、は?」
何と答えればいいのか。巨人族というのは、調べつくしても荒が出る考察がほとんどというぐらいの、謎と幻想が混ざった
古代の時代にしか存在することが許されなかったものではないのか。だが、この身長からして、目の前の女が巨人族という説は
ぬぐいきれない。更に考えると、冷や汗が流れてくる。巨人族は人間と真っ向に敵対関係にある、裏切りも取引もへったくれもない
分かりやすい関係だったはずである。ならば何か、自分は血に飢えている凶暴な種族、と一般的には言われている巨人族と
無用心に、敵国から手渡された特性のお茶を貰い、それを疑いもせずに口にしているのと同じなのか。
「うおおおっ!」
無様に両手の斧を構え、引き下がる。今になって、何故怪しい格好をし、図体が大きい女に向かって薬を与えてしまったのか。
後悔とはこのことか、役に立つことも無い。それが後悔なのだ。
「あ、ごめんっ! その、あたしは死に掛けてた時にあなたに助けられたから、もう敵意はすっとんじゃったの!」
「は、はあ?」
斧は未だ、交差しながら視線に映っている。
「その、何と言えばいいのやら。巨人族と人間の戦争があったのは知ってる?」
「知っとる」
圧倒的な戦力で、人間がけしかける戦を次々と破ったとされているが、天にいる何かが天候だの凄い武器だので、非現実的な
ことが巻き起こった結果、巨人族は一気に不利となり、絶滅してしまったとされている。だが、それも幻想だと思った。
人間の世界で起こる戦いに、非現実的なことは全くといってもいいほど発現することはない。人間が起こしたのだから
人間が行なえる行動の範疇で争いごとぐらい肩をつけろ、と言うのは平和な時代で生まれた人間の言い分である。
それを、天の助けだの天罰だの、言い換えてしまえば、それは技術を駆使して争いあっている双方の真ん中に、先走った
技術を持った天下無敵の軍が割り込んできて、独善の暴威を振るって片方の軍を蹴散らしていく。感情はそれぞれであろうが
何、こいつ、と呆然とすることしかできない人間の一人である。だからジルタスの自己紹介は助かった。巨人族といっても
城ぐらいの身長を持った種族ではなく、平均的に人間よりもやや大きい程度の身長、ということが証明された。
これぐらいならば、人間が技術と闘心を燃やし、自力で勝利してもおかしくはない、という確証が持てる。歴史は誇張で
生きているというが、確かにその通りだ。
「で、あたしは捕虜になった人間の拷問をしてたんだけど、ね。天王吐魔心ジルタスなんてあだ名までつけられちゃって」
「盗賊みたいだな」
強く睨まれる。それと同時に足が微動だが、後ずさりする。これが巨人族の持つ威圧感なのか。
「で! 人間が何か知らないけど有利になっちゃって、グラストヘイム城まで攻め込まれちゃって、当然巨人族っぽいのは
皆殺し、あたしも例外じゃない。まあ、こんな図体じゃ仕方ないけどね。で、それで成仏できると思う?戦争だからといっても
半ば虐殺されちゃったあたしたちが」
「されんよ」
理不尽な理由で殺される、殺されたことすら分からない、そういった人間が幽霊になるのだろうか。
「まあ、そのね、自縛霊になっちゃったのよね。進入してきた人間を見ると、頭の中が戦争の時のような、殺意と敵意が
ぶわっと膨らんできて、自己も保て無いまま攻撃していく。大昔の繰り返しをしているのね、きっと」
遠い目になる。その目は、かつては熱かったグラストヘイム城の光景や、拷問されていく人間を見てきた、悠久の時を超えてきた
者独自が持つような、見通すことも出来ない、ほんとうの意味での遠い目をしているような気がする。
「で、時々こうやってやられちゃうわけだけど。でも、やられても成仏できないのね、きっと。虐殺されるのと何ら変わりは無いもの」
「まあ、そうかもしれねぇなぁ」
「拷問されて死んでいった人たちがそうさせてるのかもしれないけどね」
何故笑えるのか。過去のことが一気に頭に流れ出し、何故あんなことをしたのだろうか、と、今になって良心を覚えたのか。
不老不死というのは、喜びよりも覚えやすく腹に残りやすい、罪や後悔を抱えてずっと生きていく、ことなのだろう。
「ジルタス!」
「うん?」
「俺と話をしよう! もう大昔のことを後悔してもしょうがない、お前はこうして理性を手に入れたんだ! な?頼む!
見てられねえぜ! 俺と一緒に何か明るい話でもしてお外に出よう!」
持っていると信じたい正義や、若さ特有の目先の欲望やそれ以外の何かが上手くごちゃごちゃに混ざり、爆発しているのが
分かる。こんな感情は、アサシンになっても沸くことはなかった。
多分、一目ぼれしたのだと思う。
「え、あっ、」
今を掴み損ねた女は、自分を保つために声にならない声を出す。何かが寄ってきても別におかしくないぐらい、自分は
大声でジルタスを前向きにさせようと、言葉で奮闘している。いきなり頭に血が登りだした男に、どう対処していいのか
分からないのはしょうがない。ジルタスは生まれ変わってまだ数分しか経っていないのだ。
「後悔しまくったら自殺しちまう! 生きよう! もう戦争も無いんだ! みろ、この城のありさまを! 誰も使っちゃ
いないだろ!? な、戦争はもうおしまい、お前を掴んで離さなかった悪循環もこれで終わり! 俺と話して今に慣れてその後
お外に出て新しい人生歩もうぜ! な! お前美人だし! な! やっていけるって!」
頭の中で次々と、沸騰したお湯に沸いて出てくる泡のような速度で、前向きになれそうな言葉が噴出してくる。これが本心なのだから
自分がみっともなくても、相手が笑顔を取り戻してくれれば、それでいいと思い続けた。
「あ、」
ジルタスは、
「ありがとうっ」
笑った。
「でさ、何で赤いポーションとか黄色いポーションとかを飲み干してもビンを持っていないのか、それが不思議で
しょうがないんだわ」
「確かに、それを残しておいて売るのは賢い選択よね。どうして例外も無くビンを投げ捨ててるのかしら」
ジルタスは未だ、女の子座りのままだ。無軽快なその座り方は、頭の中を心地よく転げさせる稲妻である。
ジルタスはその座り方が、非常に魅力的だということに気づいては居ない。ジルタスが女の色をしているせいでも
あろうが、年上の雰囲気をした女が年下のようなしぐさをするのは、無自覚な誘惑である。それは確信めいたところが
無いから、嫌味を覚えることも、心を探るような真似もしなくて済む。昔はこんなことはしなかったのだろう。時の流れとは
悪い方向にも歩ませるものでもあるし、良いところにへと前進させる、不可抗力の川だ。今とは何といい時であろうか。
「うーむ、ポーションに何かを混ぜることは猛毒な薬品に変わり果てるのだろうか」
「洗えばいいじゃない」
「がー、そうか。だとすると」
今という、昔に縛られてきた生き物にとっては理不尽で激動の変化と変わりない流れは大きすぎるだろう。まして、ジルタスは
外の世界に出ることが出来なかった、城の亡霊である。だが、触れることはできるし、落ち着いて喋ることも出来る。幽霊ではなく
死人が動いている、という考えもよぎったが、そういったものの大半は、聞く耳も持たずに人間に襲い掛かってくる。こうした
現実があるお陰で、ジルタスはただの女という説に逃げ出すことが出来るのだ。
「ビンは、消えてしまう!?」
「あ、それ有力かも」
だから、少しずつ今に馴染ませればいい。自分の考えは間違ってないはずだ、と思った。
「でも、なんで消えてしまうのかしら」
「分からね」
「ううーん、謎は謎を呼ぶわね」
「ああ、極めてすっげえどうでもいい謎だがな」
「それを追求するのがいいじゃない」
人差し指を真上に立て、片目をふっ、と閉じる。唾が体の中に流れていく、ジルタスの長い髪が、僅かに揺れている。
「え、あ、そ、そうだな!」
「おっ、ジルタスちゃんにほれたな?こいつ」
「悪いか畜生ーっ!」
お互い、鈍感ではなかったらしい。こうした密室で、自分の秘密というものを打ち明けた相手というのは、必ずといってもいいほど
相手に惚れている可能性がある。昔からそう決まっている、馬鹿の一つ覚えというが、嫌いではなかった。
「おかしいわねぇ、あなた。本当に暗殺者?」
「あ、知ってたの?」
この衣装を着て、何人もの男を殺してきたのだろう。何年もの間、その繰り返しだったのだ。その時のジルタスには、死にたい
という気持ちすらなく、ただ人間を見かけたら殺すという本能しか与えられなかったのだろう。この、大昔から未だ渦巻く悪意に
よって。悪意とは人を間違った方向に進ませる薬だ。飲まなければ何ら問題は無いが、人間の心は弱い。堕ちることは
何も難しいことではない。人生を笑いながら生きようとするものは、必ず悪意に飲まれてしまう。アサシンはその極みである、暗殺者
という時点で屈折してしまっている。他人の命を奪うという大げさなことをしでかさなければ、生きている実感がわかない。
他人を陥れて、初めて自分が生きていると感じる。それは歪んだ優越感であり、認めたくないと吼えても離れられない、愚かで
なくてはならない本能と定められている。
「まあね、でも陽気すぎる。殺気がまるで感じられない」
「ああ、俺は正義のアサシンだからな」
空間が一時だけ黙り込んだ後、
「正義の、アサシン?」
「ああ、人助け、悪党退治。一般的に正義と呼ばれている行動を専門としたアサシン。俺が作った」
天才で無い自分があっさりと作れるほどなのだ。アサシンというのは堕ちた行動をして始めてアサシンなのだ。
魔力も無ければ商いの才も無い、騎士になれるような気高い心も無い、しかし誇りはある。
「俺はアサシンしか道が無かったんだねぇ、俺のような正義、正義と軽く言える奴が騎士なんかになれんと思ってるから」
自分の何も無さをごまかすように、頭を無理やりかきむしる。
「で、アサシンの技を手に入れた瞬間、俺の本音爆発ってわけ。俺は昔からね、なぜだか悪人が許せなかった、別に事件に
巻き込まれたとか、主人公っぽい過去は無いんだけどさ」
ジルタスが微笑みだす。
「多分、性格なんだと思う。暗殺者になってる奴は暗殺者向けの人格してたんだろうさ、そして暗殺者になりたいって夢が
ぱっと湧き出てくる、理由なしにね。それが人間なんだと思うよ」
両手を組む。女の前で頭を掻くということは、失礼極まりない行為だということに今更気づいたが為だ。また後悔する。
「でもまあ、俺はアサシンにしかなれなかった。騎士のような礼節や、本当の意味での正義の心を持った真面目な人格を
しているわけじゃなし、かといって接客に適した人格ってわけでもない。多分、客が不本意なこと言ったらすぐに
怒っちゃうと思うから。俺って心が弱いなぁ」
「でも、助けてくれたじゃない。優しいのよ、あなたは」
「やっ、優しいっ!?」
確信めいたように、ジルタスは微笑みながらうなずく。これは妄想ではない、現実が与えた優しさだ。
自分にとっての世界とは、簡単に動転する。単調な人生などありえないのだ。必ずどこかで、暗転や激動が走る。
「アサシンになれただけの強さはあるんだし、アサシンに縛られていないという点は、アサシンにとっては不本意かもしれないけど
あなたは革命的だと思う。それでいて他人に迷惑をかけていないんだから」
「あ、あー、あのーっ、」
もはや何も言えなかった。優しさ、癒し、暖かさ、それらが他人を飲み込んだ時、人は何も言うことはできない。感情が
高ぶっていて、それでいて不愉快でないから、何も言えないことは正しいのだと、思い続ける。
「胸を張って。あたしを励ましてくれるってこと自体が、その、あなたのいいところなんだから」
魂が砕けそうだった。全身に流れる血が鈍くなり、それでいて熱さを持っていくのが分かる。
妄想ではなく、現実なのだ。今もなおジルタスは微笑み続け、自分の目を見つめている。こんな目をした女が
拷問という、誰もが賛同しない行為を平気で行なっていたというのか。ジルタスも、こんな未来に辿るとは、思わなかっただろう。
そして、人生の転機とはこんなものなのかもしれないと、何気なさそうに考えているだろう。
「あ、ああっ、ありがとな、うん」
「お互い様ね」
勝ち誇ったような笑みを浮かばせる、しかしそれでいて不愉快を感じないのは、ほんとうにジルタスのことが好きになって
しまったせいなのだろう。恐らくは、何人もの男を魅了したのであろうが、戦争当時である。殺気をばらまき、武器を常に手にし、馬鹿に
した巨人族は痛い目を負わされたに違いない。それが乱世で生きるに相応しい姿であり、女という個性を捨てた
損な生き方をしてきたのだろう。
「ふうっ」
「そういえばあなた、アサシンといえばカタールとかジュルだけど、どうして斧なの?」
よくぞ聞いてくれた、という顔をしていたに違いない。ジルタスの緩んでいた口元が、ごく真っ直ぐに変化していた。
「これは抵抗かな。元々斧は嫌いじゃなかったし、アサシン独特の武器使っちゃ、本末転倒だと思うから。まあ、効率悪いから
誰も誘ってくれないんだけどな」
斧といっても、片手で持てる程度の軽い斧しか持つことは出来ない。攻撃速度は暗殺武器よりは落ちるし、軽い斧など
重量で勝負する武器にとっては、ただの役立たずでしかないのだ。それでも、体に染みこませれば、暗殺武器よりもこちらの方が
効率が良いという錯覚に陥ることが出来る。今更暗殺武器に手を出しても、斧の使い方に慣れてしまった今では
丁寧に扱おうとしても結果と呼ぶこと自体が恥ずかしい結果しか生み出さないだろう。
それに、世界でただ一人の両手斧使いというのは悪くない。だが、世界は広い。同じ闘い方をしている者はいくらでも
いるのかもしれないが、アサシンになってこの誇りを抱いている、というのは間違いなく自分だけだ。たとえ見かけたとしても
少なからずよこしまなことをしている、と自分に言い聞かせ、酔いしれるだろう。若いのだ、結局は。
「じゃあ、あたしと一緒に組んで戦いましょう。人生と」
「はあ、はあ!?」
また微笑みだす。今度は、心が揺さぶられることを言われて焦る子供を弄ぶかのような、年上特有の笑み。恥ずかしくなって
顔を真っ赤にしているのが、自分でもよく分かる。しかし、やはり不愉快とは思えず、恍惚すら思える。これが恋なのか、幸せなのか。
アサシンにも幸せはあるだろうが、それは乾いた幸せであって、自分が今抱いている幸せというのは、水に濡れた
恥ずかしい幸せである。だが、人というのは乾いていようが濡れていようが、自分が良かったらそれでいいのである。孤独を
幸せと思うことは、何ら恥ずかしいことではなく、人生の道の一つだからだ。
それにしても、人生と戦うとはどういうことなのだろう、
現実はまた動転する。目の前でジルタスが燃え盛っているのが、今の時だ。気を確かめ、白昼夢でも見ているのではないか
という逃げに走ったが、燃え盛り、赤く輝く炎の海の前では、頭の中での逃避など現実にあっさりと引っ張られてしまう。
何だ、と叫んだ。だが、炎は希望を持ったジルタスに嫉妬するかのように、まとわりつき、少しずつ命を削り取っていく。
幸せを手にした瞬間、どうしようもない不幸が訪れるのは物語の手法であるが、実際に生きている人間にとっては
ただの理不尽そのものだ。この場が上手いだの、凄いだのと褒める必要性も、理由も全く無い。あるのは現実への絶叫だ。
どうにかしようと思い、ポーションをジルタスめがけ乱暴に振りまこうが、無駄としか思えないほど、炎は盛況だった。
ただ見ているしかなかった。炎に囲まれているというに、熱くは無かった。誰かが、炎の大魔法でも繰り出したのか。不思議と
思考の海は、素早い判断を下していたが、それがどんな意味に繋がるのか。結局は、原因という建前だけを掴んだだけに過ぎない。
ジルタスは、微笑んでいた。口が動いている、さようならと言っているように見えたし、また会いましょう、と伝えているように
思えた。当然、そちらを選びたかった。ジルタスの髪が焼け、肌も黒ずんでいく。炎は怒りが走るほど、張り切って燃え盛っている。
一体、何処をどう間違えたのか。自分が悪いのか、ジルタスが巨人族だから、死なねばならなかったのか。
ジルタスの苦し紛れの笑みを見た後、目の前が真っ白になった。殺されてもいい、という気持ちすらあった。
喪失とはこのことかと、呆れたように、ほうけるように、思考が四散していった。
何週間経ったのか、よく分からない。集団活動をしていた者が、アサシンがジルタスに襲われているものと勘違いし
正義感によって放たれた無償のロードオブヴァーミリオンにより、ジルタスは命を散らしていった。間違ってはいない。
あのあと、保護されて城の入り口付近で手厚く看護もされた。人間としてしごく真っ当な対応だったが、やはり許せなかった。
誰がではなく、こんな展開にした世界を殴りつけたかった。幸せの崩壊を見せるために、あの出会いはあったのか。
それならば、最初から無かったほうが良かったのだ。正義の名の下にグラストヘイムで淡々とした鍛錬だけを行なわせたほうが
よっぽどましだった。ジルタスの喪失はそれほど、大きかったのだ。それでもやはり、目の前に流れる川は眺めている者の
気分などおかまいなく、流れていく。人生にも見えた。
正義に生きる単純な人間は、自分にとっては巨大だが大まかに見るとほんの些細な挫折にすらひざを屈してしまうものなのか。
本質的には、自分は何も失われていない、他人の目からすれば、魔物に襲われている自分から救い出された、だけなのだ。
となると、今、こうしていることは馬鹿で、勝手に自虐的になっているだけの、不幸な自分に酔いしれているだけの
世の中を舐めきっている愚かな若造に過ぎない。自分が、長年縛られていた者を開放するという、高尚なことなど
出来る自信は無い。生半可な気持ちで魔物を外に出し、協力し合うというのは人間の摂理に牙を剥いていることと同義なのかもしれない。
楽になりたい、と思った。金は、何気なくある。暗殺道具を買い、本来の姿になれば、過去に起こった失われていない喪失など
忘れることが出来るかもしれない。立ち上がる。斧はその場に置いておき、暗殺道具を買うために、モロク行きのポータルを
踏むために、前に進むために首都に向かおうとした時、
「あなた、この斧はあなたのでしょう?」
「一応」
「だったら、持っておきなさいな。あなた、その様子だと組んでいる人がいないようね?」
「斧が主流のアサシンなんてそうそういやしねえよ」
「実はあたしもなのよ、世界は狭いわね」
そこで振り向く。ああ、やはりかと思う。体内が砕けそうになったのを、はっきりと感じた。
「どう?一緒に組まない?あたしも組んでくれる人が見つからなくて」
「ああ、そうしよう。きっとそのほうがいい」
「良かった、それじゃあ行きましょう。困っている人を見かけたら助ける、があなたの良いところだから、安心できるわ」
「へえ、なんで知ってるんだい?」
どこかで見たような容姿、すぐに分かる声。何てことだろうか、世の中は捨てたものじゃない。世界は動転する。
「あたしの名前はジルタス、あなたと一緒に人生と戦うことにした正義のアサシンよ」
空は青かった。川は、何があろうと流れ続けるだけ。アサシンへの道は、もう遠い。
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